「千草-ちぐさ-」

 俺は家を出て都会に住み、一浪して大学へ入った。
 最初の夏休みは、ほとんどバイトに費やした。
 穴掘りも海の家もプールの監視員も、中元の配達もコンサートの
整理も、片っ端からやった。おかげで懐はだいぶ温もった。
 汗臭い万札が入った財布を眺めていたら、ふと考えが浮かんだ。

 そうだ、田舎にでも帰るか。

 夏休み最後の一週間、俺は月曜日に切符を買い、電車に乗った。
固いシートに腰を虐められ、三回乗り継いで、俺は駅で降りた。
 駅前の景色は、あまり変わっていなかった。そりゃあ、そうだ。
まだ数年しかたってない。広場にはすすけたタクシーが一台、客の
あてもなく停まっていた。
 俺は乗ってやることにした。運転手は俺の知った顔だった。
「おー、ター坊!おまえが客とはなあ、出世したもんだ、ははっ」
 運転手は任せておけとばかりに、べらべら喋りながら、車を走ら
せ、俺の家へと向かった。この車には、前から世話になっている。
 俺がひきつけを起こした時も、こいつは颯爽と現われて、俺と両
親を病院まで運んでくれた、と母親から聞いたことがある。
「着いたぞー」
 思い出しながら、少しまどろんでいたらしい。その声にはっと顔
を上げると、見慣れた家の門があった。
 財布を開き、わざわざ万札を切って、運賃を払った。
「小さいのねえのか?…まあいいや、端数はまけとくよ」
 俺を降ろすと、タクシーは来た道を戻っていった。またあの駅前
で、あてもなく客を待つ気だろうか。
 まあ、そんな事はどうでもいい。俺は家の門に手をかけた。
「ター坊!?」
 覚えのある声が、俺を呼んだ。俺をその名で呼ぶ人は、両親と、
あの運転手と、
「やっぱりター坊だ。元気にしてた?」
 俺より五つ年上、俺がまだ高校生の時に結婚して、この町を離れ
た、チー姉だった。
「チー姉…」
 俺は嬉しくなった。チー姉は随分ふっくらした姿になってはいた
が、優しい目は変わらずに、俺を見つめていた。
「元気だよ。チー姉も帰省?」
「まあね。お盆に子供が熱出して、帰れなかったから」
 子供。その何気ない言葉に、俺の胸がちくりと痛んだ。
「チー姉は、こっちにはいつまでいるの?」
「ん…一週間くらい、かな」
「ふうん。俺もそれくらいいるかな、夏休みももう終わりだし」
「そうか、大学生だっけ?」
「うん」
 と、その時、チー姉が耳をそばだてた。
「ごめん、子供が泣いてるみたい。また家においでよ、ね」
 チー姉はにっこりと笑うと、自分の家へと駆けていった。子供の
泣く声は、俺には聞こえなかった…母親の耳は、鋭いもんだ。
 俺は溜息をひとつつくと、門を開き、玉砂利を踏んで、家へと足
を進めた。なんだか懐かしい、俺の家へと。

 その晩俺は、母親の手料理を食い、親父とビールを飲み、いい気
分で布団に転がった。風はだいぶ蒸していたが、俺のアパートより
は百倍ましだ。蚊取り線香の匂いを快く感じながら、俺はぐっすり
と眠った。
 よっぽど寝心地がよかったらしく、目が覚めたのは10時過ぎだっ
た。適当に飯を作ってもらい、腹に入れて、タバコを買いに出る。
結構歩いたが、自販機が見つからない。少しイライラしかけた時、
「…そうか。マツばあちゃんの店があった」
 あそこなら家から数分だ、逆に歩いてきてしまった。すっかり汗
をかいて戻ってきたとき、がさがさっと植え込みが動いて、小さな
影が飛び出した。
「びびびびびーっ」
 おもちゃの銃を構えた子供が、甲高い声で効果音を叫ぶ。一瞬た
じろいだ俺だが、
「ううう〜、やられたあ〜」
 倒れるジェスチュアを交えて、お付き合いしてあげた。たぶん、
チー姉の子供だろう。
「わーい!やっつけたやっつけたー」
 得意満面で銃を振りかざし、子供がどこかへ駆け出してゆく。そ
の背中を追いかけるようにして、
「遠くへ行っちゃダメよ!」
 チー姉の声がした。…会いにいってみるか。
 俺は隣の家の玄関へ回り込み、引き戸を開けた。ちょうどそこに
チー姉がいた。
「あらター坊。うちの子見た?」
「ああ、銃で撃たれたよ。元気だね」
「もう年長組だから、腕白で腕白で…上がりなさいよ」
「じゃ遠慮なく」

 座敷には、もう一人の子が、布にくるまってすやすやと眠ってい
た。女の子だ。チー姉にどこか似ている。
「熱出したのはこの娘。手がかからないけど、少し身体が弱くて」
「大変だね」
 チー姉が入れてくれた茶を啜りながら、俺たちはたわいない事を
あれこれ喋った。チー姉は子供の事と愚痴ばかり言い続けた。
 俺は黙って聞いてやり、相槌も打った。少し、寂しかった。

 俺はチー姉が好きだった。よく泣かされもしたが、俺のことを親
身になって可愛がってくれた。そういえば結婚式の朝、チー姉を乗
せていったのはあのタクシーだったな。俺は学生服の襟を無理矢理
締め上げられて、窮屈な思いと切ない想いをして、その車を見送っ
たっけ…。
 お茶のお代わりをしようと思った時、俺はチー姉の異変に気づい
た。胸を時々押さえ、苦しそうな溜息をつき、視線をさ迷わせる。
「どうしたの?」
「ふう…ちょっと、胸がね…」
 俺の背筋をぞくりと悪寒が抜けた。まさか…心臓?
「誰か呼んでくるよ」
 と立ち上がりかけた俺を、チー姉が制した。
「違う違う…乳房が張って苦しいだけ」
「へ?」
 俺は意味がわからなかった。
「母乳が溜まるとね…張って痛いのよ。この娘、」
 と、まだ寝入ってる子供を見やり、
「あまり飲まなくて…搾り出すのもすごく痛いしね」
「へえ…」
 初めて知った。なかなか子育ても大変だ。
 その時、チー姉が俺を見た。
「…吸って、みる?」
「えっ」
 俺は絶句した。心臓がボコンというような、変な脈を打った。
「吸い出してもらうのが一番楽だし、ね」
 ね、ったって、いいのか?
 俺が呆然としていると、チー姉が俺の過去を暴露しはじめた。
「何よ、昔一緒にお風呂に入って、まだ小さかったあたしの胸を、
 チューチュー吸ってたのを忘れたの?」
 う…それは覚えている。
「ター坊だから頼むんじゃない。さ、早く!」
 あっけらかんとチー姉は言い、ブラウスの前を開いた。スポンジ
みたいなものをはめ込んだブラジャーをずらすと、昔見たのとは随
分と印象の違う、乳首が俺の目に見えた。
 俺は立膝で、チー姉ににじりよった。まさか見られてないだろう
かと思い、きょろきょろあたりを見回した。
「早く…上の子が帰ってきちゃう」
 その言葉が、俺の背中を押した。俺はできるだけやさしく、チー
姉の左の乳房に顔を近づけ、乳首を口に含んだ。
 きゅっと吸うと、結構な量の母乳が、どっと俺の口の中に出た。
危うくむせるところだったが、俺はなんとかこらえてそれを飲んだ。
 まさか練乳みたいに甘くはないだろうと思ってはいたが、味その
ものはほとんどない。水っぽいが、舌の上に少し粘ついた感触が残
る。それより驚いたのはその量だ。乳房が全部ミルクタンクになっ
ているんじゃないかと思うくらい、どんどん出てくる。
「反対側も…」
 うっかり乳首を舌で転がしかけた時、チー姉が催促をした。そう
だった、俺は別に遊んでるわけじゃなかったんだ。
 俺は顎に垂れた母乳を手で拭い、反対側の乳首を口に含む。そし
て、さっきよりは少し味の薄い母乳を飲んだ。違うものなんだな。
「ふー…ありがと、もういいわ」
 安堵の息を漏らしたチー姉が、やんわりと俺を押し戻した。俺は
なんだかバツが悪くなって、
「じゃ、帰る」
 そのまま振り向かずに家を出た。俺が勃起していたのを、チー姉
は気づいていただろうか。

 翌日は、チー姉の子供、健一君と遊んだ。子供の体力は底なしか
と思う程、俺は振り回され、へとへとになった。でもおかげでチー
姉はゆっくり昼寝ができたらしく、冷えたスイカをご馳走してくれ
た。単純に、嬉しかった。

 その翌日、俺はまたチー姉の母乳を飲んだ。健一君と、妹の真咲
ちゃんが仲良く昼寝をしている間にだ。飲ませてくれたという方が
正解かもしれないが、俺がチー姉の太腿に手を伸ばすと、
「めっ」
 そういって、手を抓って拒絶した。俺はまた恥ずかしくなった。

 それから二日雨が続き、チー姉が明日帰るというので、俺は今日、
帰ることにした。チー姉が家の車を運転して、駅まで送ってくれた。
「幼稚園の送り迎えに必要だから…」
 チー姉は免許を取った理由を教えてくれた。俺より自転車に乗る
のが下手だったチー姉のことだ、さぞ時間がかかったろうな、と俺
は思ったが、言わないでおいた。

 駅についた時、ダイヤが少し遅れているらしく、駅員が、列車が
来るまで20分くらいあると告げた。俺は切符を、チー姉は入場券を
買い、二人とも黙ったまま、ホームの端のベンチに座っていた。
 何か話したかったが、言葉が出てこない。
 ふと、チー姉の横顔を見た。チー姉が視線に気づき、こっちを見
た。
「…母乳、おいしかった?」
 悪戯っぽくチー姉が囁いた。俺は正直な感想を口にした。
 うふふ、とチー姉が笑う。
 その顔はもう、俺の知るチー姉ではなかった。母の、人妻の、女
の顔だった。その目の奥に、艶っぽい光が僅かに揺れていた。
 それからまた俺たちは黙り、列車がホームに入ってきた。すぐに
発車のベルが鳴る。こんな田舎駅に用はないと言いたげなせっかち
さだった。
 列車に乗ろうとした俺に、チー姉が小さく折りたたんだ紙を手渡
した。受け取った俺とチー姉の間を、閉まったドアが割った。
 列車が動きだした。俺から見えなくなるまで、ホームのチー姉は
手を振ってくれた。俺も車内から、控えめに手を振りかえした。
 カーブを曲がると、駅がすっかり森の影に消えた。俺は手近な座
席に座り、さっきチー姉から貰った紙を開いてみた。
 そこにはこう書かれていた。
「また吸いたくなったら、遊びにいらっしゃい。でも絶対、来る前
 には連絡してね。千草」
 その下には携帯の番号と、意外に俺のアパートに近い、住所が記
されていた。
 俺は少し迷ったが、その紙を捨てることにした。誰にも拾われな
いよう、小さく小さく破って、最後に列車の窓からそれを流すと、
ぱっと散って見えなくなった。
 俺は席に座り、マツばあちゃんの店で買った煙草に火をつけた。
 ポケットに入れっぱなしだったので、少し湿気た感じがしたが、
構わず吸った。
 俺以外に、この車両には誰も乗っていないから遠慮はなしだ。俺
は盛大に煙を吐き出し、勢い余ってむせた。カッコ悪い。
 一本吸い終わって、窓の外を見た。舌の上に、ヤニの臭いの奥底
から、ふとチー姉の母乳の味が蘇り、俺は変な気分になった。
 …俺にも彼女ができて、結婚して、子供ができたら、俺にも母乳
を飲ませてくれるかな。変態とか言われそうだな…。
 俺は考えるのをやめて、寝ることにした。まだ、街へは遠かった。

 半開きにした窓から、昨日とは少し違う匂いの風が入ってくる。
 どこかで、秋が、始まったらしい。

-END-

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